2021-08-04 白木麻子さん、感覚が脱臼する、時間を経てやっとつながること
12:40
今日は入り口手前、左に並んでいる八百屋さんと、果物屋さんを試す。
野菜は玉ねぎが悪かったので買わなかった。玉ねぎがきれいな八百屋さんは良い八百屋さん…というわけではない(見た目がきれいなだけということもあるし)が、ちょっとひどいありさまだったので選んで失敗だったかな…と思いつつも、かごにすでにいくつか野菜を入れていたので返すのも悪いなと思って今日はここで。
果物屋さんは悪くなかった。ブラックチェリーとレンヌクロードを買う。果物はたくさん買うと高い(果物屋さんのせいではない)。
先週は威勢のいい八百屋さんで小さな珍しいマンゴーを勧められて美味しかったから、次回はそこにも寄ろう。
https://www.youtube.com/watch?time_continue=136&v=1KtUwsOIl-M&feature=emb_title
椅子が転がる軌跡のように見える木の枠組みととか、ベッドのように見えるけれどマットはない、でもベッドルームを想起させる小物や布が散らばっていたり、鏡が入っていないので鏡台ではないがブレスレット様の金属が引っかかっていたり、特定できるようで特定できない、意味をなさないオブジェと家具の中間に浮遊しているような作品。
ナビゲーターの方は「二日酔いをした時に見たような風景」と表現していたけれども、私は以前見た、目がすごいたくさんある仏像を思い出した。普通の顔の中に普通の要素が普通じゃない数ある、という顔に直面した時に、なんだか一瞬そのたくさんある目が見えない、みたいな状態になった。目だけに視線をシフトするとたくさん目がある、と受け取れるのに、顔を見る、目を合わせようとすると、一瞬その多くの目がいっぺんには認識できないで、普通の顔として認識されてしまって、多くの目のことは同時に見ることができない、みたいな体験だった。
あれは対称が目だったからかな。
同時に複数とは、「目を合わせる」という行為ができないということか。
でも実際、あの目がいっぱいある仏像は存在するものなのか記憶が定かでない。
不思議な場所に、記憶もあの体験も浮かんでいる。
白木さんの、ある場所で気になる小枝を拾うことが重なって、冬になってみたらそれがある鳥の巣の下だった。自分が美しいと思ったものを鳥は役に立つから拾った、そのことを「見てはいけないものを見てしまった」と表現していた。 #考えたい 「見てはいけないものを見てしまった」というその感じ方にとても興味を惹かれた。
なにかを直感的に選んだり、気持ちを揺さぶられたり、なんだか気になる、美しいと思う、そういう感覚を、動物に共通するものとして語ろうとしない言葉の選び方がいいなと思った。
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良く知っているように思っても、何年も何十年も後になってやっとその時の行動や言葉があるものごとと繋がって、理由が分かる、というようなことがある。
もしかしたらそれは、その友人の中にいっぽん太い筋が通っているから言えることなのかもしれないので誰にでも言えることなのかわからない。
当時は今よりもずっと若かった自分が軽く聞き流していたことを、年月が過ぎた今思い返すと、ああ、あの若さでこのひとはこんなことをし、考えていたのだ、その時には自分自身も横に並んだ大人であるかのように勘違いしていたけれど、隣でそのことを聞きながら私はその重さを全然わかっていなかった。その時わたしが第一に気にかけていたことはまったく子どもじみたことで、そのフィルターを通してしか友人の言葉を聞き、受け答えをし、行動することができなかったかもしれない。
こうして時間をつらぬくように見ると、なぜそんな風にその人が話し、行動し、反発し、黙ったのか、少し分かるような気がする。
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5年前(もう!!)に衣装を作っていただいた黒井岬さんのサイトがシンプルで素敵だった。 名刺やロゴのデザインもとても素敵。熊谷さんだった。
aboutの文章が、ここまで実直にものとつきあい、つくってきた岬ちゃんをよくあらわしていると思う。